選りすぐりのスマートフォン

精神と肉体の両方面で、世界・世間・他人とのさまざまな関係を維持する行き方が必要になる。 「人間」とは、文字通り、二人で支えあう「人」のネットワーク(「間」)のことである。
外界に対する活き活きとした関心、他人との濃淡とりまぜた関係(社交)、精神世界に対する飽くなき興味、社会の中で自分の存在を認められたいという願望、自分の成しえなかったことを、子どもや孫たち、あるいは後輩たちに託したいという期待、こういうものの総体が、人間をいつまでも活き活きと活動させるエネルギーなのだ。 これがなければ、どんなに医療技術が進化し、生命延長のための医療技術がどれほど高度化しても、人間としての充足した生を送ることはできないのである。
もちろん、致命的な病気はある。 否応なく老衰はやってくる。

しかし、多くの「老衰」といわれているものは、肉体的な衰えそれ自体からくるというよりは、なすべきことがなくなるという精神的・肉体的な不安からくると言ったほうがいい。 逆に、肉体や精神を活発に動かす「仕事」を持ち続けることができるならば、高齢であっても元気に生き抜くことができるのである。
そんな実例なら掃いて捨てるほどある。 しかし、もちろん、老衰には勝てない。
肉体的なハンデキャップを免れることはできない。 そのために、高齢者が人間らしく生きるために必要な補助機器が必要になる。
つい最近まで、年を取るというのはいささか残酷なことだった。 たとえて言えば、生産活動をやめて廃品同様になった機器が、スイッチを切らず、電力を浪費しながら、意味もなく動いていることと同じだったからだ。
退職まで、仕事一筋に生きてきた人たちのごくささやかな望みは、若いときに望んでなすことができなかったことを、時間の許すかぎりやることであった。 Hの時代小説に、『三屋清左衛門残日録』(文春文庫)がある。
仲代達矢主演のテレビドラマが評判を取ったから、ご存じの方も多いだろう。 清左衛門は、激務を生きて、自ら願い出て隠居する。
これからは若いときにやりたかったことが心おきなくできる。 71年、浮世絵師、賞に入選。

73年「暗殺の年輪」で直木賞受賞。 目が悪くなれば、ちょっとした細かい仕事はできなくなる。
もちろん、読書なんて不可能だ。 肉体活動と精神活動の基本条件が奪われるのだ。
だから、老人たちにとって老眼鏡や近眼鏡が、どんなにうれしい贈り物だったかは、想像するに難くない。 仕事と読書を通じて、「世間」につながり続けることを可能にしたかそれよりも、老人たちにとって福音だったのは、ラジオやテレビの登場である。
今でも、病院のベッドにいる人たちの最大の楽しみは、ラジオ放送だといわれる。 そして、普通の老人にとっては、スイッチさえひねれば、いながらにして「世界」とつながることができた。
心が弾む。 しかし、隠居してみると、心の置き所や身の置き所がないことに気がつく。
万事に集中できなくなる。 こんなはずではなかったが、というわけだ。
同じように、退職したら、都会や人間とはおさらば、趣味の園芸に身を使い、読書で心の楽園を満たそうと思っている人がいた。 書斎も増築した。
しかし、園芸も読書もいっこうに心を弾ませてくれない。 とりわけ、本を開けば、すぐに眠たくなる。
書斎は昼寝の場所に変じる。 ほとんどがこんな例なのだ。
N、1932年生。 52年俳優座養成所に入所。

「ハムレット」「オセロ」など多くの舞台を踏み俳優座の中心俳優として活躍。 59年「人間の条件」の主役を演じ、スター俳優となる。
テレビ番組の登場は、どれほど彼らに生きる喜びをもたらしたか、はかり知れない。 (「彼ら」などと言っているが、もちろん、私もその仲間の一人である。
)もしテレビがなかったら、暇が十分にありすぎるほどある老人たちの多くは、外界に対する興味や関心を急速に失って、たちまち老衰していっただろう。 私は、長寿をもたらした最高殊勲選手はテレビの普及と充実にこそあったと断言してよい。
眼鏡とテレビ、これは老人が活き活きと生き続けるための歯と唇である。 老衰が決定的になるのは、足腰が弱ることだ。
自由に移動できなくなる。 家族や他人に依存できるならまだいい。
しかし、そうはいかない。 そうはしたくない。
だから、家から出ない。 歩かない。
座り続けてテレビで時をすごし、さらに足腰を弱くする。 もちろん、足腰の弱さはリハリビすることができる。

歩くことによって、ある程度機能回復が可能だ。 この点、リハリビの効かない目とは違う。
歩けて、移動可能になったら素晴らしい。 しかし、足で歩ける範囲はしれている。
しかも、交通機関は限られている。 時間がたっぷりあるのに、好みのところに行くことができない。
週末、みんなが郊外に出て、家族で楽しむのを横目で見ているのは、やりきれないものがある。 もちろん、車に乗れば好きなところに移動可能だ。
しかし、現在、六○代以上で、車の免許を持っている人の割合は意外と少ない。 車社会の中で育ってこなかったからだ。

車は、乗せてもらうものでしかなかった世代だからである。 老人になって、誰の手も借りず、自由に移動できたらどんなにいいだろう。
そのためにこそ自動車がある。 しかし、自動車の運転は難しい、自動車は危険だという考えにとらわれている人がほとんどなのだ。
もちろん、自動車の運転は、眼鏡をかけるのとかテレビのスイッチを押すのと比べると、難しい。 しかし、自転車よりはやさしいし、安全なのだ。
もちろん、労力はいらない。 エッと言われるかも知れない。
でも、本当なのだ。 ただ、自動車の運転には免許書が必要だ。
でも、教習所に行ってお金さえ払えば、懇切ていねい丁寧に教えてくれる。 合格まで面倒を見てくれる。
誰でも受かるようになっているのが、またそうでなければならないのが運転免許試験でさらに、自動車は、自転車やオートバイに比べて安全である。 四輪だから倒れない。
ボディで保護されているから、少々の追突でもけがをしない。 高速運転や無謀運転をしないかぎり、相手がこちらに突っ込んでこないかぎり、大事にはいたらない。
なによりもいいのは、力と技術がいらないことだ。 最低限、目・手・足が動くだけでいい。
足は少々不自由でも運転可能だ。 いちばん重要なのは、危ない場所、危険な運転を避かって、テレビは目を悪くする元凶だといわれた。
それならば、活字を読むなぞは目を悪くする最悪のものなのだから、読まないほうがいいに決まっている。 勉強自体も、やめたほうがいい。

しかし、目を精神的な営みのために使わないで、何の意味があるというのだろうか。 けることだ。
それさえ守っていたら、現在の車ほど安全で快適なものはない。 自動車で行動範囲が広くなり、さまざまな場所、人、ものとの出会いでエネルギーが新たに増してくる。
自動車こそ老人たちのものだとあえて言ってみたい。 それに、やはり最新型の車に乗ると、最新の時代流行と平行して生きているという実感が湧く。
これは、なかなかいい気分だ。 余裕があれば、もちろん、いい車に乗ることを勧めるパソコンで寿命が延びる自動車に乗ると足腰が弱くなる。
それは事実だ。 しかし、自動車は足腰の代わりを立派にやってくれる。
人間の身体機能と機械の関係は一筋縄ではいかないのだ。 パソコンは新種の機械である。
複雑で使えない。

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